『タテ社会の人間関係(中野千枝著)』という本を読みました。
日本でいかにタテ社会が根付いているかを論じた名著で、社会構造に基づいた日本人の行動がわかりやすく解説されています。
会社内での半ば無意識の振る舞いについて、なぜそんな行動をとるようになっているか、「なるほど~!」と合点のいく説明がたくさんありました。
目次
階層社会・上下関係
さて、ヨルダンも日本と同じタテ社会であり
民間企業や行政機関も
「ピラミッド型」
の組織構造を採用するのが主流です。
トップに一人が立ち
その下に2-3名のおエライさんがいて、
そこからさらに下に複数の部局があって、というように、
下に行けば行くほど人数が多くなります。
そこでも明確な
「上下の差」
「序列の差」
があり
給料の額や
意思決定の権限はもちろんのこと
「上」の人には広い個室のオフィスがあって
その人専用の駐車場が割り当てられています。
服装を見るだけでその人が組織の中で
どのあたりにいる人なのかがわかります。
男性は「上」にいけばいくほど
襟のついた長袖のシャツを着て
ネクタイを締め
スーツやジャケットを羽織り
革靴を履いています。
日本のクールビズのような
ノーネクタイに半袖シャツの服装は
ヨルダンでは「下っ端」「使いっぱ」
にしか見えず相手にしてもらえません。
日本と異なる「上下」意識
このように上下関係がはっきりしているヨルダンですが、意思決定をするための会議やブレーンストーミングとなると、「上」も「下」もなく、みなが言いたいことを言うのです。
「上」の者の発言になにか思うところがあれば「下」の者がどんどん質問やツッコミを入れて発言します。しかも、「上」の者が話ししているのを遮って発言することも躊躇しません。
日本における「上下意識」
日本では普通、「上」の人が会議でもっともらしいことを発言すると、「下」の者は言いたいことがあっても忖度をして、あるいは遠慮したり、ぐっとこらえて言いたいこと、思っていることを呑み込みます。
上司にモノ申すのは「上司に対する口答え」、「反抗」であり、「組織の規律を乱す者」として、好意的に見られることはほとんどないのではないでしょうか。
ましてや「上」の人が話しているのを「ちょっと待ったー!」とばかりに遮るなんて、お説教を覚悟でやるような行為だと思います。
そんな意識、感覚がいつのまにか身についている私としては、だいぶ慣れたとはいえヨルダンでの会議はいつもハラハラします。あんなに上の人にたてついて、下の人たちは本当に大丈夫なんだろうか?と思わず心配してしまうのです。
日本と同じ階層社会ヨルダンにおける「上下」意識
先日、ヨルダン人関係者を集めプロジェクトの定期会合を行いました。
参加者は、私が常駐しているヨルダン政府省庁のナンバー2と、関係部局の局長3名、省庁の地方行政官25名と私です。
最初はナンバー2の静かな話で始まった会議ですが、本題に入ってくると「下」の地方行政官からの質問や発言が多くなってきます。そして議論がどんどん熱をおびてきて、ナンバー2と局長、地方行政官がお互いの発言をさえぎり、相手より声を一段と高くして言いたいことを言いまくるようになります。
この場面だけをみていると、ヨルダンが日本と同じ「タテ社会」「ピラミッド型の組織」であることがにわかに信じられません。
そんな調子で会議が進み、そろそろ会議が終わるかなというタイミングで、近隣のモスクから「お祈りの時間だよ~」ということを知らせるアザーンが鳴り響きました。
このアザーンを合図に、会議が収束していきます。「お祈りしなきゃ」という意識が働くようで、それからほどなくして会議は終わりました。
「さあ、お祈りしようか」となると、会議での興奮がどんどん和らいでいくのがわかります。
今回の会議はモスクから離れた建物でありましたので、そのまま会議室でお祈りをします。床に大きな絨毯がひいてあり、そこで男たちは靴を脱ぎ、正座をし、お祈りが始まります。
私はもちろん会議室から出て、外から会議室の中を何気なく見ていました。
みな、横一列に並んでお祈りしています。
そう、タテならぬ横一列です。
神様の前では平等なんですね。
日本でもし同じような場面があったとすると、「下」の人は「上」の人に「さあさあ、どうぞ前へ」と場所を譲ったりするのではないかと思います。
でもお祈りの場面では、例外なく「上」の者も「下」の者も横一列です。場所が狭ければ、「上」の者が「下」のものの後ろでお祈りすることも全く珍しくありません。
神様の前では上下関係はないのです。
目にみえる「上下関係」はあるが、意識の中で存在しない「上下関係」
それからしばらくしてお祈りが終わり、お茶が出てきました。
会議も終わり、お祈りも終わってスッキリしたのか、皆にこやかにコーヒーをすすり、ビスケットをかじり、タバコ片手に談笑しています。文字通り「談笑」です。
さっきの会議であれほど言い合っていた人たちの間に、なんの隔たりもありません。それどころか、このコロナ禍なのに、お互い肩を組んで楽しそうに話をしているのです。
身分の違う者同士が会議中に喧々諤々の議論をしても、会議が終わってしまえばその後の関係にスレ違いを起こしません。実際の腹の中はわかりませんが、少なくとも表面的にはお互いのわだかまりは全く見えないのです。
ナンバー2氏は、あちこちにできているグループをコーヒーを持ってまわっています。会議中はナンバー2氏に厳しいコメントを出した者に対し、それを根に持つようなことを言ったり、たしなめたることはありません。
「あいつ、俺に反抗しやがって~」という恨み言もありませんし、敵対する意見を言った相手を呼びつけ、上下関係をタテに相手をとっちめることもありません。陰口もたたきません。
ナンバー2が帰る段になって、みなが見送りをしています。ナンバー2氏は参加者一人一人に声をかけてから帰っていきました。
タテ社会といっても、あくまでそれは表面的なもので、それより深いところでは「神様が一番エライのであって、我々人間はみな同じ」という意識がヨルダンでは強いんだろうと感じています。
ヨルダン社会でも日本のように忖度や、言いたいことを我慢する場面がないわけではありません。しかし日本のそれとは比較にならないほど発言の自由度は高いです。
もちろん感情的に相手をこき下ろすのは論外ですが、会議での発言によってお互いの関係が壊れたり、こじれることはまずありません。
いつもヒヤヒヤの会議のあとに目に映るのは、いい笑顔に満ちた、私から見ると羨ましいぐらいの爽やかな人たちの姿なのです。