もう10年以上前のことになりますが、ベトナムでイベントを開催したときのことです。
日程の調整や当日のスケジュール、会場の選定、配布資料の作成などなど、ベトナム政府のとある省庁関係者とパートナーを組み、様々なことを協議しながら準備を進めました。
関係者のうち「誰が」「何を」「いつまでに」「どんな手続きで」やるのか、ということももちろん確認しながらです。
イベント参加者はほぼ全員がベトナム政府関係者が想定されていました。
そして事前の打ち合わせ通り、あらかじめ収集していたメールアドレス宛にこちらの会社のレターヘッドで作成した招待状を添え、参加対象者に私がメールを送ってイベントの告知をしました。
こちらから送ったメールで「参加するか、しないか」の返信を求め、そのほとんどから「参加する!」という回答を得ていました。
ここまでは完璧だ!と思い迎えたイベント前日。
とある参加予定者から、「招待状が届いてないんだけど」という問い合わせが入りました。
「えっ?メールに添えてあったでしょ?」
と返すと、
「ちがうちがう、ベトナム政府のレターヘッドが入った招待状じゃないと困るのよ」と。
いわく、
「このイベントに参加するには仕事休まないといけないでしょ?上司から許可をもらうときに、ベトナム政府のレターヘッドが入った招待状がないと休暇届けを出せないのよ」
とのこと(汗)。
確認したところ、参加予定者の大勢が同じようなことを言っており、
「おいおい~、イベントは明日なのにマジかいな~!」
とパニックになってしまいました。
慌ててベトナム政府のパートナーに連絡し、
「ベトナム政府のレターヘッドがないと参加できないってみんな言ってる。どうすりゃいいんだ?」
と問い合わせたところ、あっさりと
「あなた、政府関係者はベトナム政府からの正式な招待状がないと出席できないって知らなかったの?」
といわれ、
「はあ!?なにそれ!?聞いてないよ!」
「そもそも、ベトナム政府からの招待状が必要なら、あんたのところがやるべきでしょう?なんでやってないの!?」
と半ばキレ気味に返したところ、
「だってあなた、招待状はあなたがやるって事前に確認したじゃない?」
とまたもあっさりと返され、
私は血圧がビヨーンと跳ね上がったのを自覚しつつ、
「私の言っている招待状は、こちらの組織のレターヘッド付きの招待状であって、ベトナム政府のレターヘッドが付いた招待状じゃない!」
「そもそも、私はベトナム政府の役人でもないのに、なんで私がベトナム政府のレターヘッドの付いた招待状を送らないといけないの!?」
とブチ切れモードです。
すると相手は、
「だってあなた、何も聞いてこなかったじゃない?だからてっきり、あなたは全てわかっていると思ってたもん」
ですって。。。
もうフニャフニャとその場で崩れ落ちそうになりました。
海外で仕事をしていると、こんなことがしょっちゅうあります。
こちらの仕事の仕方というのは、いつの間にか習慣として身に付いたものです。普段無意識にやっていることが多く、いつの間にかそれがこちらの「常識」になっています。
相手も同じく、普段やっていることが彼等の「常識」です。
上の例でいえば、私にとっては「私から会社のレターヘッドを付けて、メールで招待状を送ればよい」というのが「常識」でしたし、事前の打合せでも「私が招待状送りまーす」で終わっていました。
一方ベトナム側は、政府関係者への招待状といえば「ベトナム政府のレターヘッドが入った招待状のこと」というのが「常識」で、事前の打合せで「はびーび(私)がやってくれるんだ」と無意識に(勝手に?)認識されてしまっていたということです。
日本国内でも同じかと思いますが、海外の仕事でやっかいなのは
「こちらの常識は相手にとっても常識だろう」
「こちらがいつもやっているように、相手も同じようにやるだろう」
とお互いが思っているということです。
こうした「常識」の違いは、国レベルはもちろん、組織レベル、業界や職種レベル、個人レベルでもあるものだと思います。同じ会社にいても、経理の人と営業の人では考え方や物事の進め方も違うことも多いのではないでしょうか。
相手との付き合いが長いとか、事前に周囲の人からの助言などがあり、仕事の仕方の違いが少しでも明らかになっていればまだ対応もできます。
しかし、はじめての国だとか、相手との関係が浅い場合、思わぬ「落とし穴」がいたるところにあります。
海外で「落とし穴」を避ける方法として、異文化コミュニケーションを勉強するのがとてもいいと思っています。
加えて、特に海外に来て日が浅い場合、相手の仕事の仕方、コミュニケーションの仕方を観察したり、普段何気なくやっている仕事についてどんどん質問することが本当に大事です。
でも、このどんどん質問するというのも、言うのは簡単ですが行うのは結構難しいです。
例えば・・・
私は洗濯物を出すとき、服は裏返しにして洗濯するものだと思っていました。しかし家内は逆で、服を裏返さずにそのまま洗濯することが常識!と今でも言い張っております。
「あなた(はびーび)はみかんの皮を裏返して洗うの!?」と言われ、グーの根も出ませんでした。
家内のことはさておき、これもある意味「異文化コミュニケーション」です。
問題は、そんな「洗濯物を裏返すか、裏返さないか」なんていう質問、あえて意識して相手に投げかけようとは思わないということです。あまりにも日常の意識の外側にあることだからです。
これと同じで、本当にささいなこと、普段無意識にやっていることは相手にあえて「あんたはどうやってんの?」なんていちいち質問しないというか、質問しません。
でも!
この本当にささいな、一見下らないことが、上のベトナムの例でも挙げたように仕事に支障をきたすことが多いのです。
とはいえ、
この「落とし穴」というのも私は悪くないと思っています。月並みな言い方ですが、「落とし穴」をきっかけにお互いのことをより深く理解できるようになりますし、月日が流れれば笑い話になったり、ちょっとしたトークのネタになることも沢山あります。
「落とし穴」にはまると、何も言ってくれなかった相手に対して腹が立ちますし、それ以前にそれに気付かなかった、確認しなかった自分にも腹が立ちます。上の例のように状況によっては非常に焦りもします。心臓に良くないこともまれにあります。
それでも治安上のことや機械を扱うような仕事などはさておき、普通にオフィスで仕事している場合、よほどのことがあっても「落とし穴」で命まで取られるわけではありません。
「落とし穴」はできるだけはまりたくないですし、はまらないよう頑張りますが、「はまったらはまったで、それも仕方ないや~」ぐらいに思ってます。